2009年11月13日金曜日

やる気と行動力の法則(1809)



何度も書いたが、行動を起こした者だけが成功のチャンスをつかむ可能性がある。

それを支えるのは情熱だ。

情熱があり、やる気が根本的に高まっていなくては行動を起こす力が湧いてこない。

山下富美代(「集中力」講談社現代新書)は、「やる気とは、自分からすすんでという自発性がもとになっているので、金銭や賞などの報酬や外的評価が導入されると、自律性が失われてしまうのではないかと考えられる。」と述べている。

つまり、何かのためにやるというのではなく、「自分がそれをやりたい」という自発的な意志に支えられて行動を起こさなくてはならないのである。

この純粋性を持った自発性は、同じスポーツをやり続けていると徐々に失われていく。

そうなると、なにか外的なものを求める気持ちが強くなり、周りにいる者がそうした気持ちを助長する傾向も強くなってくるので、それが得られないことが続くと、自発的な行動をやめてしまうケースは少なくない。

このような純粋性を持った自発性を長い期間維持することは可能なのだろうか。

それは大変難しい問題だと思う。

ここでは私が情熱を維持している法則について述べてみたいと思う。

それは、「死」を意識することだ。

こんなことを書くと、なにか怪しい宗教めいた内容になってしまうと思われるかもしれないが、そうではない。

私がアメリカに渡って数ヶ月が経った頃、私の妻が子どもを連れてアメリカにやってきたときのことだ。

家族に会うことができた喜びと緊張から解き放たれた安堵感で満たされたときに、それまで休みなく働いてきた疲れがでたのだろう、私はドライブに出かけた帰りの高速道路で居眠り運転をして、事故を起こしてしまった。

時速120km以上のスピードでの事故では命の補償はない。

ところが、いくつかの幸運が重なり、車は大破したが、妻が軽い擦り傷を負った程度で済んだのである。

事故直後は、道路封鎖をしたパトカー、駆けつけたレスキューや救急車などで騒然としていたので、無傷でぴんぴんしている自分がなんとなく恥ずかしく思えて、命が助かったことに対する感謝の気持ちを持つどころではなかった。

ところが、ホテルに帰ってから事故を振り返ったときに、その恐怖がよみがえってきて震えが止まらなかったのを覚えている。

そして、疲れて眠っている子どもを抱きしめて生きていることに感謝した。

そのときに私は「死」を明確に意識した。

「人間はいつか死ぬ、それが明日かもしれない」と強く思うようになった。

そして、「もし、明日死ぬとしたら、お前は満足して死ぬことができるのか?」と問い続けるようになった。
宗教には「死生観」というものがある。

これは簡単に言うと、「「死」を意識することで「生」を活き活きとしたものにすることができる」という教えである。

「悔いのないように今を生きる」、この考えが私の情熱を生み出しているし、自発的な行動力の源になっている。


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