一生懸命にやっていない者は、そんなにやっていないから負けても仕方がないという「言い訳」を自分の中に作っている。
だから、負けることに対する恐怖は大きくはない。
「テニスは楽しいからがんばります。」
は、その悲しみや苦しみという恐怖を経験しようとする一歩手前で引いている自分自身に対する「言い訳」に過ぎない。
「言い訳」をする者は、大切な場面でも、まず「言い訳」をして自分自身を安全な場所(人には非難されないように)に置きながら、自分自身をもごまかしてしまうのだ。
岩月謙司(「女は男のどこを見ているか」ちくま新書)は、
「言い訳という行為は、自分にウソをつく行為」
と、<言い訳というウソ>を厳しく批判している(男はこうはなりたくないものだ!)。
「テニスは苦しい。でも、テニスをやっている自分が大好き。だから苦しくてもがんばる。がんばっているから、また喜びも大きい。だから楽しい。」
が、本当の意味である。
楽しんで、趣味の域でやっているテニスに本当の喜びはないし、<強さの降臨>はない。
<死にもの狂い>、これは古い言葉ながらとても大切な言葉だ。

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