私がそのような過酷な状況に耐えることができたもっとも大きな理由は、テニスをやっているという<プライド>である。
「俺は、テニスを、こんなに苦しくてもがんばっている。」
「お前たちとは違うんだ!」
「俺は青春をテニスというスポーツにかけている。」
・・・という<思い>が自分を支えていた。
スポーツに打ち込んでいる人間は、何もしていない人間よりも価値があると強く信じていたのだ(今も少なからずそう思っている)。
強い絆で結ばれる仲間でも、
「あいつが辞めないのに、俺が辞めてなるものか。」
という意地のぶつかり合いがある。
これが人間を行動に駆り立てる。
そこには毎日繰り返される過酷な状況に対する絶望はない。
V・E・フランクル(「夜と霧」みすず書房)は、第二次大戦下のドイツ軍強制収容所における人間の心理を克明に記している。
その中には、
「どのような過酷な状況でも人間としての尊厳を失わず、自分に与えられた仕事を誇りを持ってやり遂げようとする人がいた」
と書かれている。
生き残った多くの人は、このような尊厳を持ち続けることができた人なのだ。
もちろん、そのような人でも惨殺された人は何万もいるだろうが、少なくとも、絶望に打ちひしがれ、生きる気力を失ってしまった人にはそのチャンスは少なかったと思われる。
また、その本の中で、
「苦しむことはなにかをなしとげること」
という言葉が大変印象に残っている。
なにかを本気になって成し遂げようとすれば、苦しみは避けては通れない。
その苦しみの中でもプライドを失わず、それにかける思いを持ち続けることで強くなれることを教えてくれているように思う。
<本当の苦しさ>を味わったとき、この言葉の<本当の意味>が見えてくるのかもしれない。
実は、私はテニスがそれほど好きではない。
練習もあまり好きではなかった。
テニスをしなければフラストレーションがたまるというようなことはない。
もちろん嫌いではないが、私にとってテニスは自己実現のための手段である。
つまり、テニスをやっている自分や、テニスを教えている自分が好きなのであり、それをより高みにもっていきたいからプライドを高く持って努力する。
そうなると、すべての人間がライバルである。
スポーツの枠を超えて、あらゆる成功者に負けたくない気持ちでいる。
成功者の活躍には賛辞を送りながら、それを超える自分になるにはどうしたら良いのかをいつも考えている。
絶望している暇など無いのだ。

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