2009年12月30日水曜日

マイナスの感情を転化する(1856)



このことは、「マイナスの感情がよくないということではなく、それをどう活かしていけば良いのかという考え方をもつことが重要である」ことを教えてくれる。

ここでは、「不安」について考えてみよう。

試合前に不安になったことがないという人はいないだろう(ターミネーターは別だ!)。

なんとも不思議なものである。

好きで始めたテニスで、自分の力がもっとも発揮される最高の晴れの舞台である試合を前に不安になる。

なぜか考えてみた人も多いだろう。

五木寛之(「不安の力」集英社)は、
「不安とは、電車を動かすモーターに流れる電力のようなものだと、いつからかそう思うようになってきたのです。不安は生命の母だと感じる。それは、いいとか、わるいとか、取りのぞきたいというようなものではない。
不安は、いつもそこにあるのです。人は不安とともに生まれ、不安を友として生きていく。不安を追いだすことはできない。不安は決してなくならない。しかし、不安を敵とみなすか、それをあるがままに友として受け入れるかには、大きなちがいがあるはずです。
自分の顔に眉があり、鼻があり、口があるように、人には不安というものがある。不安を排除しようと思えば思うほど、不安は大きくなってくるはずです。
不安のない人生などというものはありません。人は一生、不安とともに生きていくのです。そのことに納得がいくようになってきてから、ぼくはずいぶん生きかたが変わったような気がしています。」
と言っている。

また、生月誠(「不安の心理学」講談社現代新書)は、
「不安と人間の本質との関係については、二つの意見がある。
①不安は、本当の自分に直面する場合に起こる反応である。不安を感じるのは、本当の自分がわかりかけている証拠である。不安こそ、人間の本質に迫る王道である。
②不安は技能や能力を発揮するのを妨げる。人間の本当の豊かさは、不安を解消することによって初めて実現可能となる。
哲学者ハイデガーは、『存在と時間』で、「恐怖は、恐いものに直面して、それを避けようとするときの心境であるが、不安は、自分が慣れ親しんでいる日常的なあり方を不可能にし、自分自身の本来的なあり方に直面させる」と述べている。
また、哲学者メルロ=ポンティは、その著書『知覚の現象学』の中で、「自己を認識するのは、ただ脅かされた場合の限界状況においてだけ、たとえば、死の不安とか、私に対する他者のまなざしの不安とかにおいてのみである」と述べ、いずれも、不安が本当の自分に直面させることを強調している。
一方、不安を訴える人の相談、指導に当たっているカウンセラーは、少なくとも、カウンセリングの場では、②の立場に立つことが多い。」
と述べている。

我々は、「不安」は、嫌なもの、あってはならないもの、自分の力を妨げるものとして、それをいかにして排除すべきかについてのみ考えすぎてはいないだろうか。

「不安が本当の自分に直面させる」という側面を忘れて、ただ取り除こうとすれば、「不安」大きく抵抗し、あなたの中でさらに力を増すかもしれない。

確かに、「不安というのは緩慢に人の心を萎えさせていく働きを持つ」けれども、「不安は人間を支えていく大事な力である」(五木寛之(同))、そんなふうに考えていくべきだと思う。


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