2009年9月7日月曜日

自立のすすめ(1742)



私は自己管理ができない選手が多いことを嘆いているのではない。

試合直前なのに心身の状態を最高にもっていこうとする努力が見られないことを嘆くのだ。

試合前のウォーミングアップでさえ、「自分ひとりでやることが恥ずかしい。」という選手がいることに驚かされる。

特に男子選手にはこの傾向が顕著であるように思われる。

戦う以前の問題だ。

なぜ戦うために準備することを恥ずかしいと思うのか。

ここに、大きな問題が潜んでいる。

岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、

「日本社会は同調の規範度が高いと考えられる。」

と言い、

「人間は自分が精一杯努力をしているつもりでも、グループのときは、やはりどこかで手を抜いてしまっているようである。」

と述べている。

つまり、多くの(弱い日本人)選手は、仲間とつるむことで、ほかの人がやっていることと同じことをやっているという安心感を得ると同時に、きちんとウォーミングアップをやっていない自分を正当化しようとする「ずるがしこい考え方」に支配されてしまうのだ。

このような傾向は、「自信のなさの表れ」であるとの指摘もある(榎本博明「<本当の自分>のつくり方」講談社現代新書)。

諸富祥彦(「孤独であるためのレッスン」NHKブックス)は、

「現代の若者の多くは「ひとり」でいる状態をひどく恐れ、避けようとする傾向が見られる。長じてもなお妙に子供っぽく、あたかも成熟を拒否しているように感じられるのは、青年期の心の成長に不可欠な「自己との対話」がなされていないためであり、原因の一端は「ひとりじゃいられない症候群」を助長する携帯電話、電子メール、インターネットなどの社会環境にもある。」

と述べている。

「ひとりじゃいられない症候群」とは良い命名だと思う。

しかし、人生どう生きるか、しょせん己ひとりの道であるし、スポーツは孤独な戦いに決まっている。

なのに、それを恐れていて戦えるものなのか?

ただ友達と仲良くテニスがしたいという選択があることを否定はしない。

ならば、「強くなりたい!」とは口が避けても言ってはならないのだ。

強くなりたいのならば、まず仲間から離れよ。

橋本治(「橋本治の男になるのだ」ごま書房)は、

「「戦いに勝つ」は、「なれあいの群れから離れて、自分の信念に従って生きる-そのことを押し通せる」です。このことこそが「自立」で、「自立」とは「戦い」が成り立たなくなった現代に唯一残された「戦い」なんです。」

という。

実に男らしい言葉ではないか。

「自立」できなくて、何が男だ(なんだか若かりし時に見た「俺は男だ!」の森田健作(今は千葉県知事だっけ)のような気分になってきた)。

また、

「男にとって「自立よりも重要なこと」というのはなにか?それは「一人前になること」です。」

と言っている。

この一人前とは、

「「自分のすべきことはなんでもする」です。「自分のするべきことは何でもすると覚悟して、なんでもする」です。そしてこのことは、もちろん、「できないこと、わからないこと、知らないことを、できない、わからない、知らないと素直に認める」と同じです。」

と述べている。

このような「覚悟」を貫くことははなはだ困難であろう。

しかし、「孤高に耐え」、「個」の強さを身につけない限り強くはなれない。

これは法則である。

大リーグで2000本安打を達成したイチローが2年目のシーズンを終えたときのインタビュー記事が中日新聞(ローカルな新聞でごめんなさい)に載っていた。

その中で、

「やれることはすべてやったし、手を抜いたことは一度もない。常にやれることをやろうとした自分がいたこと、それに対して準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」

と述べている。

「準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」

とさらりと言ってのけるところに惹きつけられる。

イチローは「一人前」だなあと思う。

強くなるための条件、それは高い資質を求めるのではない。

戦うための準備をやり続けることにこそ真意があるのだ。

このことを忘れて「強くなりたい!」は単なる欺瞞である。


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